たらこ先生『学び合い』始めました

『学び合い』を中心に、日々の出来事や考えた事を書いていきます。『』はまだまだ駆け出しの初心者。コメントなどでアドバイスいただけると嬉しいです^ ^

「さきがけ」と「しんがり」

卒業目前にして、子ども達がみるみる成長して私を置いていきます笑


今日は保護者宛のプレゼントを作成しました。担当の子達で話合い、ダンボールで写真立てを作ることになったようです。

担当の子がみんなに作り方を説明し、ダンボールを決められた大きさに切っていく作業を始めました。

しばらくすると、ダンボールを必要以上に切っている女の子の集団が目に留まりました。

「あれ?自分の分だけ切ればいいって説明だったけど…聞いてなかったのかな?教えてあげようかな?」と考えていると、近くにいた男の子が

「自分のだけでいいんだよ!」

と声を掛けました。

それを聞いた女の子の1人は

「今日、お休みの人いるでしょ?それに失敗する人もいるかもしれないし。余分作ってるの。それが助け合うってことでしょ?」

と。

教室を見回してみると「大丈夫?」と声を掛けている子もちらほら。


「子ども達はすごい」と改めて感じました。今までいかに子ども達の力を信じず、自分達の頭で考え、行動する機会を奪ってきたのか思い知りました。今日のクラスの姿は、おそらく自分が「助け合わなければダメだ!」などと指示していたら見られなかった姿でしょう。もしくは見られたとしても、心からの行動ではなかったと思います。


最近、堀裕嗣先生と金大竜先生の『アクティブ・ラーニング時代の教師像~「さきがけ」と「しんがり」の教育論~』を読みました。自分の中に沢山の問いが生まれ、今までの考えを揺さぶられる良書でした。その中でこんな事が書かれていました。

 

締め付けというのは、実はそこに集う人たちの発想を縮めるのです。それぞれの動きを活性化させるのではなく、それぞれの動きを狭い世界観の中に閉じ込めてしまうのです。要するに、僕が言いたいのは、魁教師的な発想だけで子どもたちに接していると、子どもたちの発想を縮め、最終的にその動きを狭い世界観のなかに、教師の世界観のみのなかに閉じ込めてしまうのではないか、ということなのです。しかも、教師の側から見ても、そうした自分の世界観の範疇だけにいる子どもたちと接しているのは心地よいのです。そのことがこのやり方こそが正しいという狭い世界観に教師を閉じ込めます。


すごく腑に落ちました。「魁が悪い。殿が良い。」という話ではありません。これからは殿教師的な発想、指導が大切になるのは確かですが、魁教師的な発想も指導も、もちろん必要です。ただ今までの自分のように、魁教師的な発想しか頭になく、これが正しいのだと思っていては、子ども達を自分の価値観の中、枠組みの中に押し込むことになります。

 

子ども達が教師の想像を越えていく。そんな姿で溢れるように、普段の関わりから意識していかなくてはならないと感じました。

 

卒業まで、あと12日‼︎

f:id:hirako211:20190305234113j:image