たらこ先生『学び合い』始めました

『学び合い』を中心に、日々の出来事や考えた事を書いていきます。『』はまだまだ駆け出しの初心者。コメントなどでアドバイスいただけると嬉しいです^ ^

『学び合い』の考え方を落とし込む

西川先生のfacebookの投稿が、ぐさぐさと刺さります。

教育は変わらなければならない、ということを理解して行動し、発信している方は増えています。頼もしい限りです。が、その殆どの方は在学中のことを視野に置いている。そして、そこにあるのは「良い教育」なのです。
 私は子どもたちが後期高齢者になるまでのことを視野に置いています。従って、「良い教育」ではなく、彼らが生き残ることを考えています。教育を先導している方々の多くは、恵まれています。だから、生き残れない子どもたちを想定していない。
 私だってそうです。ものすごく恵まれていた。でも、高校教師として闇の一端を見た。その一端だけで、三十年以上、私を動かすほどです。そして、もっと深い闇がある。ゼミ生の中学校教師が言いました「高校に行けるのはまだまし」と。その通りだと思います。
 私はその本当の闇を見る覚悟はありません。でも、その闇がない社会と教育を目指したい。
教育基本法第1条は「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。しかし、私が教育基本法第1条を起草したならば、「教育は就業し、納税し、保護する子女に普通教育を受けさせる国民の育成を期して行われなければならない。」とします。なぜなら、権力者を縛るための憲法において日本国憲法において国民の義務は3つだけ書かれています。それは「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」(第26条)、「勤労の義務」(第27条)、「納税の義務」(第30条)です。
 私は「子ども」ではなく、あの一人一人の教え子をイメージし思考します。
 このギャップは埋められないのかな。
 以上、愚痴です。
追伸 どんな言説でもいいです。最底辺で苦しんでいる子どもをイメージしてください。それが判別法です。面白い授業、分かりやすい授業、そして、正しい教育ではなく、生き残れる教育なのです。

 

教科指導は『学び合い』、特別活動はクラス会議とお考えの方もおられると思います。方法のレベルだったらうなずけます。しかし、考え方のレベルだったら首をかしげます。
 クラス会議も『学び合い』に包含されてしまうからです。
 具体的にはクラス会議をやっている子ども達に「みんなが納得できる話し合いをするために、ルール、決めごとを君らが自由に決めていい。大事なのはみんなが納得する話し合いをすること」と言って任せた瞬間、それは『学び合い』になります。
 おそらく、多種多様なルールを考え、取捨選択し、改良するでしょう。そして、全てのルール、決めごとがなくなることを喜ぶのは『学び合い』です。最後に残るのは、「みんなが納得できる話し合い」をするために、各人がその場その場で出来ることをやるということだけが残るのですから。
 どんな方法も、それは教育以外の方法も、学校観と子ども観に基づいていれば、それは『学び合い』です。
 かつて酒井式描画法に取り組んでいた教師が『学び合い』を知り、『学び合い』を実践しました。その教師は酒井先生に、「酒井式描画法の改良を子ども達に求めたいが良いでしょうか?」と聞いたそうです。酒井先生は喜んでいたそうです。

まだ『学び合い』という考え方を、自分の中に落とし込めてないんだろうなと感じます。

今日はこの本を再読。


読み終わるまで寝ません!